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物には、それができあがるまでの過程や、つくった人の気持ちが込められるようです。
例えばある国で過酷な労働のなか、つらい気持でつくったものは、やっぱり悲しい波動を放っているような気がしてなりません。また、壊れ易いです。 フェアトレードのものや、丁寧に丹精込めてつくられたものとは、明らかに違いがあると感じます。 幸運を招くなんとやらグッズは無くとも、そうした波動の高いものをつかうことは良いようです。 お買物の際は。 これはどんなふうにできたのだろうか?と常に思うようになると、社会の見え方が少し違ってきます。 お金をつかうこと、何かを消費することは、自分だけでなく、全世界に影響を与える行動です。 べつに名を立てて何かを成し遂げなくとも、私たちの日々の暮らしは、世界に響き渡る影響力です。 ただし、目立ちません。 ですが、何かをしたら、それと同じ波動のものが返ってきます。 かなりはっきり、そうだと思えるのです。 |
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自由意志にもとづく無秩序な個々の動きに、一種のテレパシー的なもの、あるいは共有認識による魂のレベルでのつながりが働くのなら、計画することなく結果的にはもっとも効率的に目的地に辿り着けることにります。
組織や管理社会やノルマを嫌ってきた私としては、魅力的な考え方。 そして今、共同生活をしている私たちと周辺では、あるていどの共有の認識を持ちながら無計画で無謀な動きをしています。 しかし現状はトラブルの連続で、時々そうした動き方による「振り回されている」「計画が進まない」という苛立ちを感じることがあり、目下、葛藤中です。 さて、昨日、あのナナオサカキさんがお見えになりました。 いわく、「予期せぬ出来事を自然という」そうです。 随分お歳なので、耳が遠かったり現状認識の怪しいところがありますが、昔の話はよく覚えていらっしゃる。 一人暮らしの長かった私には、毎日が人間ドラマのようでひじょうに刺激的です。毎日が結果、その積み重ねを確かめていくのが充実感につながっています。 学びが格段に増え、体調も少し良くなっています。 ナナオさん、その自由奔放な生き方には賛否両論あるでしょうが、とてもよい表情をしています。 少し話をしました。詩を書くのは簡単なことではなく、表現するところに葛藤があるのだそうです。好きな言葉なんてないし、何かを残したいという気持ちもないんだとか。風のような人です。 |
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転居のお知らせをするために、多くの人に自分の考えを話すことになったのだけれど、皆に、とても羨ましがられる。
自分のやりたいようにやっていくために、それに必要な環境を得たり、自分を対応させることができることが、羨ましいのだという。 誰もが、今そこで影響力を持っているし、必要とされている。 一方で、変化を希望し、よりよい将来を夢みている。 しかし誰もが望んでいなかった、よくない現状があちこちで起こっている原因のひとつは、多くの人がその心を誤魔化してきたこともあると思う。 心は何を求めているかというと、けして物や金ではないでしょう。いや、それに気づいたほうが生きやすいと思う。 自分はどうありたいか?という信念を持とう。それは、仕事が変わったり生活環境が変わっても、ゆるぎないもの。何をしたいか、何を手に入れたいかではなく、もっと先の希望を持とう。 今一度、「自分はどうありたいか?」 あなたが、その心に正直になることは、社会全体に良い影響を与えると思うよ。 何をやるにもメリットとデメリットがあり、得るものと失うものがある。そのトレードオフを、恐れないでほしい。両天秤の重さを決めるのはあなたの心。そこには言葉で表し難い、ある種の純粋さというか、強さが必要だけれど。 |
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変化のときには体調を崩しやすい。
先週の月曜日(12日)、2年ぶりくらいだったろうか、8度以上の熱を出し(平熱が5度台なので、これはたいへん)、朦朧としながら仕事して、倒れこむように帰宅。 来月初めに引っ越す準備と、ぎりぎりまでこっちでの仕事をするので、パンパンだっていうときに、風邪なんぞひいている場合ではない! 果物で水分をとって、厚着して布団にもぐること3時間。8度5分から7度台まで下げた次第。 風邪くらいでは薬は飲まないのだ。 その後、微熱が続くまま金〜月まで南信州。打ち合わせやら顔合わせやら畑仕事やらをして、また少し体調を悪くして帰宅(^^;) 一に健康、二に健康! たまに体調を崩すと、マジしんどくって何もできなくなってしまう。 いまようやく、おさまりかけてきた頃。 身体が異常を発する、痛みを発するときは、何か身体が主張してるんだろう。 循環の悪い「気」が熱になって出たのかもしれないし、身体を動かすと関節やら背中やら痛んで、無意識の動作も確かめるようにじっくりと、身体の動きを感じることになった。 私みたいな低体温は万病の元らしいけど、これから体質変わるっすよ! |
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言葉を使うことを好みながら、つまらない文を書いてきた私(笑)はまさしく、言葉が発信側の都合で切り貼り手法で利用されたり、人の嗜好や言動を誘導する、あるいは制限するもので、ときには恐れを抱かせたりもすることを理解している。政治も教育も、様々な意思決定が言葉の世界で行なわれている。
だから防衛的に、私たちは自分を自由にする言葉を持っている必要があるし、自発的にそうしている人は多い。心あたたまる詩や歌、口にすると勇気の出る言葉、そしてそれらの言葉を選び抜くセンスを養う必要もあるだろう。そのために人は自発的に学ぶ力を取り戻さなければならない。心のうちから学びたいと思うことを見つけたら、それを徹底して追求してみるといいだろう。 言葉をもって伝えたいことがあるなら、やはり言葉の使い方に注意を払わなければならない。言葉を理解するときには共感やリアリティがある。詩歌は共感を生み、真に迫るストーリーにはリアリティがある。単語の持つイメージを使おうとするより、共感やリアリティを伝えるように言葉を文にしていくとよいのかもしれない。 過去から未来、人から人、様々なものをつないでいく、言ってみれば半物質のような言葉は、これからますます効力を発揮するのではないだろうか。束縛され、想像力を失い、より権力に従うようにならないために、私たちを自由にする言葉を増やし、溢れさせ、人は自由を取り戻さなければならない。 私たちは自由であり、自由であることの喜びと感謝を表現しよう。それは自由を阻害する働きに対して私たちができる、至高の抵抗なのだから! (4月11日のトークショーで聞いたことを受けて) |
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